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​肉式 第一部・第二部

肉式 

 

第一部

 

肉色ー薄い色調の、黄味がかったピンク色の古い呼び名。肌色とも。

能楽の流派の一つである観世流の宗家(家元)には、「翁」に使われる二つの翁面があり、一つは白色、もう一つは肉色のものである。

白色の翁より肉色の翁の方が人間的な表情を浮かべており、「翁(白色)は神のイメージが強いが、肉色はもうすこし人に近いような親しみやすさがある」と観世流の家元は語っている。

なお、翁(白色)は白色尉、白式尉と呼ばれる事もある。翁面を始め能面は、同じものがいくつも作られる事が多いが、白式尉に比べ、肉色の翁の作例は少なくマイナーである。

古典芸能「能」の中で、最も大切にされる演目のひとつ「翁」は、ストーリーもなく儀式性の強い謎めいた内容であり、翁の元になった翁猿楽は能が成立する以前からあったとされる事から「能にして能にあらず」と言われることがある。

 

 

文永三年の事である。春日の十輪寺の近くの村では、この間の騒ぎがまだ鎮まりきっていなかった。都の方で猿楽をやっていた村の出の日氏という若男が、村に帰ってきたのである。近くで仕事をしていても村に帰るという形をとったことはなかったので、日氏が都では貴い人の気に入っていられるというのも手伝って村の人の心は浮ついていた。村の端の方に住む小王の心も例外ではなかった。この数えで十四になる男子は、猿楽というものを兼ねてから聞くたびにその未だ知らぬ妙なる芸能に思いを馳せていた。珍しく都に仕事に行ったものなどが持ち帰ってきた土産話に心を躍らす。

近江の方の芸人は物真似が上手く、本当の女人に見えるというが、この目で見ればどれほど凄いのか。何かに付けて異国の文やら貴顕の人の読むような言葉を歌うらしいが、その響きはどんなものなのか。

貴い人はいくつもある座の中で好みの役者を見つけるという。気に入られるために日々すり減る思いで舞うものもあるという。どれも少年にとって、いやこの地方にとっては未知の事であった。

しかし、また別の話が少年の心を違う方は連れてゆく。

猿楽の芸人たちが土台にしているのは、田舎の呪いの類、興に乗って舞うような戯れ事だというのである。あのような祭りの浮かれを芸にしたてるものとは面白いことだ、としたり顔でいう喋り好きの老人の話を聞いてから、少年の心は浮き立った。

日氏という人の生まれた家は知っているが、歳も離れているし本人の事はあまり知らない。

先だって、小王は彼が一座の仲間も連れて帰ってきた時に、村にある寺の前の広場で人々に囲まれて喋っている、その顔を見た。

表情はにこやかにしていても落ち着いており、潤った目は動くたびにこぼれるような光を放っていた。見た目の内側から滲むような静けさは彼の腰腹の座り具合と気力を伝えていたが、一方でその目尻や、目の下の膨らみや、結ばれた口の端には、ちかちかした若さがひらめいて、全体に漂う彼の齢と体力を感じさせるところがあった。小王は、猿楽そして日氏のことを考えるたびに、その顔も思い出していた。

 

...この村で、猿楽というものを知っているものというのはそう多くない。小王の友の竹千代も、りつもよくは知らないし、その家族達もまた知らない。知ろうとする事もなければ、知っていたとしても、何か思いというものは無かっただろう。

祭りと猿楽で受ける印象が違うし、都の話も田舎に入ってくる事ではない。

今日の食べるものを自らの手で取ってこられれば、興味というのはそれで足りるのが彼らの生活だった。彼らにとっての風流とは、山から来た風が頬にあたるような、そういう日常と地続きの美だった。

その中にあって小王の熱意は異質だった。そして、小王もそれを肌で感じており、猿楽の事を口にする事はほとんどなかった。この少年は、日氏の話題を耳に聞いても口を突き出したような辺鄙な表情をして固まってしまうのである。

ある日の昼下がりの事、小王は友達のりつの家に遊びに行った。彼女の家の周りは地が砂っぽく、晴天も不晴の日もどういうわけか、陽の光は薄く濁り、地面の跳ね返す光にも砂が混じって気だるい様子なのが常だった。今日も杉女は木の棒で砂を引っ掻きながら、しゃがみ込んでいた。小王は拾ってきた木の葉をそこに巻いて、砂の絵を彩った。

「日氏さんは、今度のお祭りでなにをやるのかなぁ」杉女が唐突に言ったので小王は驚いて目を見開いた。「お祭り?日氏さんがいつ出るの?」「聞いてないの?あの人が今、ここにきてるからだけどね、あの真ん中のお堂でおじいさん達がお祭りをやることがあるじゃない。あれを日氏さんはなんかちょっと変えて、あの、何何...」「猿楽?」「そう、それにするんだって。日氏さんの他にもやってる人がいて、都で流行ってるんだって。」

小王の心は驚きと歓喜で広がった。

(ここのお祭りは昔からあると思うけど、他のところでも似たような祭りのあるところがあるのかな。猿楽の人たちの間でそういうのを真似るのが流行っているのかもしれない。日氏さんは故郷帰りのついでに、ここで披露してくれるんだ!!)小王は自分の考えを好んで俄に気分を高めだした。

 

 

 

小王は流し目に自分の考えていた顔とおんなじ顔が出てきたのでひどく驚いた。通っていった男は日氏である。長い袖の、薄い着物を着ている。卍紋を崩したような柄で、この村ではまず見ないような、武士のような仕立てで、彼が貴顕の人々との付き合いがある事を感じさせた。

日氏はすらすらと歩いてゆく。落ち葉だらけの、風が絶えず吹いてじくじくと山の音が鳴る道に、彼の姿は異質だった。

小王は少し考えてから、跡をつけることにした。彼の慎重な足踏みは、落葉にすら音を立てさせなかった。静かな2人が歩く粗悪な山道は、しばらくして、朽ちかけた木の立ち並ぶ一帯で終わった。

林の木々は黒くなったものが多く、溶けたような染みや木の皮の剥げが、木の古さを暗示している。

日氏は、その木々の、奥の方だけを見ている。

小王が後ろに回って覗き込むと、視線の先にはやはり黒ずんだ古屋のようなものがあった。木立の中に溶け込み、恐ろしく静かである。

少し立って、少年はそれが古い社だと気づいた。社は根が生えたように木立の中に自然に存在しており、その静けさは、周りの空気を吸って収斂してゆくような印象を与えた。このような印象を与えたのは、この社が小王が見慣れている形の建物ではなかったからかもしれない。村にある社に形は似ているが、少し違うような気もし、また寺とは印象が全く違っているように思った。社は家よりは少し小さいような、左右対称の形で鎮座しており、その前には、日氏の背丈より小さいような小作りの社のようなものもあった。小さい方の屋根の下ー奥まったところには、なにか木の台のようなものが置いてあるのが見える。その上にも何かあるように見えるが、小王の距離ではわからない。

日氏は、体から手だけを伸ばして、その上に置いてあるものを取った。刹那、彼は急激に袖を翻し、卍紋の崩しが木の葉の中に散った。その時、辺りに鈴の音が響いた。

袖を直した日氏が、こちらに見える方向で手の上にそのものを乗せたので、ようやく小王はその正体がわかった。手の上の小さなものは、土で出来た鈴だった。先の音を聞かなければ、焼き物の煤けた玉にしか見えない。小王の距離でもわかるということは、鈴にしては相当の大きさである。

日氏は、その鈴を手で抱えるように持ち、じっと見つめていた。

後で考えると不思議な事ではあったが、小王には日氏が柔らかく力を抜いた親指で鈴を支えている所や、日氏が鈴を見つめている、その時の瞼の収斂の度合いまで見えているように思ったのだ。

日氏は少し経ってから鈴を手で包むと、取った場所へ戻し、続けて立ち上がって、大きな方の堂の中へ入っていった。

一連の出来事を見届けた小王は、日氏がしばらく経っても出てこないと見ると、足早に堂の近くへ動いた。そして、堂に刻まれた傷や痛みが見える程度に近い距離の、老いた大木の影に身を潜めて、ただ鈴の置かれた場所を見つめていた。

黒い土鈴は、素朴な線が一本削られているだけで、やはり黒ずんだ台の上に置かれていた。

その奥の堂は、朽ちかけているために中は暗く、滲み出るのは空洞には不似合いなほど大きな存在感であった。小王はなんだか山中や洞穴を連想した。重たい暗闇の中身は、それらと同じに感じる。入口が違っても、闇というものは全てが繋がっているようだ。少年はその闇をずって見つめているうちに、全ての入口に繋がっている常闇に日氏が入ってしまっており、もう出てこないような気がしてきたが、不意に強く響いた山風の音で、その胸の高鳴りも白けてしまった。

やがて堂から出てきた日氏は、穏やかな顔をしている。その手には、飾り気のない木の箱が抱えられていた。箱の中身は小王には分からない。視線を向けられていることに気づいていないらしい日氏は、箱を傍に置いた。

そうして、社の朽ちた木の、根本からさするように手を伸ばし、乾燥した木の肌に指を添えた。木というものは乾燥すると凹凸が目立つようになる。痩せ衰えた人が、頬の皮が張り付いて、却って骨の形を克明に写すように。しかし木の凹凸はあまりにも木の骨格をデフォルメしていた。

日氏はそれを指で摩りながら、なにか不安そうな顔をしていた。

彼は何も口にせず、何も聞いておらず、足袋も履いていない、舞うような格好すらせず、ただ摩っているその木の感触を受けて、その後息にして吐き出しているようだった。

日氏が合掌すると、痩せた指の節がぶつかって所々に隙間ができるのさえ小王には見えた。

 

日氏はしばし拝んだ後、再び箱を小脇に抱えて、ゆっくりと立ち去った。振り向きざまに、彼の横顔が見えた時、その眼差しに不安さはなく、勇気のような思いが読み取れるのを小王は感じた。

そして、この時の気づきは、後々少年の身に生じる経験に対しての解釈を変えたのである。

 

日氏が振り向いた時、小王は見つかる事を恐れていなかったが、彼は前しか見ておらず、後ろに居る小王の事はなにもわかっていなかった。

 

数日して、祭りが始まった。

この村で祭りというのは追儺の事であった。4日の間、人々は寺に集まって、御仏に手を合わせ、縛った穀物を台に乗せて、夜通し歌を歌うのである。日氏が舞うのは2日目の夜だった。

 

小王は日が沈む前から寺の真中の、舞台のすぐ前でずっと立っていた。一緒に来ていた少年は燃え盛る松明の横で、日氏がいつ出てくるのかと待ち侘びていた。演目は日氏が直々に言ったわけではないのだが、周りの大人は仏の舞である、と口々に言っていた。舞の内容は、貴顕ならまだしも、祭りの一環でやるのだから大体内容は予想できるようなものでもある。

舞台は木が組まれた簡素なもので、御堂から橋を通じてつながっていた。橋のもとは戸が取り払われ、紫の布が掛かっている。それは幕だった。暗がりの中に焚かれた焚き火の明かりは紫の布の中に一度収斂され、恍惚を語るように光を跳ね返している。小王が見惚れていた時、周りを囲む人々の中でどよめきが生じた。楽器を持った人々が舞台に上がり始めたのだ。小王の体は未知への期待に、今まで以上に強張った。

舞台に目を凝らしていると、見慣れたりつの顔が舞台下を横切った。りつはこちらに気づいているか定かでない。少女は祭りの焚き火に興味津々なようで、輝く目が赤く照らされさらに輝いているのまで小王には見える。そこまで近いのに、りつはこちらに気づかず、小王もこれといって声は掛けない。

小王は心の底で、りつが日氏の舞台に興味がない事について自分が無関心なのに驚いた。

その時、甲高い笛の音が響き、小王の顔はいよいよ輝いた。舞の始まりである。

 

 

...幕が開いた時、小王は目が固まった様な錯覚を覚えた。出てきたものは、日氏である。その格好が、舞台の中で光っていた。

日氏は、幅の広い狩衣を着て裾を引きずり、履いた靴で舞台の板を蹴る様にしながらよろめいて進んでくる。その顔に当たる部分には、彼のちかちかした若さを覆い隠して、肉色の、微笑んだ男の顔の大きな仮面があった。額の上には丸い毛がふさふさと膨らみ、顎にあたる部分の下には長く紐のようなものが流れ、地に着きそうである。あれは眉毛と髭であると、少ししてから気がついた。日氏は髭を振るでもなく、扇で時折抑えては進んでゆく。

やがて舞台に到着すると、笛は調子を変え、

日氏ー仮面の男は、手を大きく広げ、体を大きく動かしながら、左右へと移り始めた。鼓は高く音をあげる。舞の始まりである。

小王は、感動を置いて、とにかく目の前のものに集中をしていた。

まず気になるのは仮面である。小王が知っている言葉では、余すところなく説明する事は不可能かと思うほど、柔らかく、しかし目に迫るような肉色の面だ。この距離でさえ...と思っている時、俄に日氏が舞台前方で歩み出た。小王は面の鼻と自分の鼻がつきそうになるかと思うほどの距離で日氏と対面していることに、どこかで冷静になりながら驚いた。

見ようとせずとも、仮面は凄まじく目前に迫る。その時よく見えたのだが、仮面には皺が刻まれていた。円を半分に切ったような形の皺は、おじいさんの顔によく似ている。

すなわち、あの肉色の仮面は老翁であるらしい。しかし、色といい表情といい、赤子のようにも見えた。そしてまた、その微笑みを見ていて、ここの寺の中にある仏像によく似ている事に小王は気がついた。「仏の舞、と噂しているものがいたが、それはこういう事だったのだろうか?」

小王の心に、今仏が会いにきているような感覚が湧いた。舞台の日氏は、たらたらと舞台の後ろの方へ下がると、足先を動かしながら囃し立てるように歌を歌っている。その響きはこの祭りで、男達が歌っている歌によく似ている。小王は心地よくなってきた。猿楽とはこんなに身近なように感じる事のできるものでもあったのか。緊張感は絶えず感じているのだが、その内に安堵がある。

日氏が、もとい仏が袖をくるくると返す。その所作は鮮やかなのに、どこか子供と手を取り合うような優しさがある。袖を巻き込んで手を取り合っているように見える。彼の閃く若さや気迫は一度取り払われた後で、舞の随所に、別の形に生まれ変わって現れているようだった。拝みながら、不思議な気持ちで見上げていた仏が、生きて会いに来ているような感覚に、小王は目の覚める思いをした。

しかし、その時突如として、もう一つの思いが心に湧き上がった。あれは仏であろうか?翁の形の仏というのは、小王は聞いた事がなかった。舞への集中が思考への集中に変わった時、ふたたび日氏が前へ進み、小王のすぐ近くへ来た。果よく見えるようになった肉色の仮面に目を凝らした小王は、肩を震わせた。その時初めて気がついたのだが、仮面の端の方は、黒い点々が見える。その黒い点々は、肉色の塗ってあるのが剥がれて木の地肌が出ていたのだ。

小王が驚いた理由は他でもない。その地肌の風合いは、あの山中で日氏が入って行った、古い社の表面にそっくりだった。

あの時日氏が抱えていた箱の中身は、この仮面だったのだろう、と小王は直感的に考えた。

しかし、彼が舞っているのは仏の舞と噂されているはずである。あの社は寺には見えなかったが、何か関係があるのだろうか?小王の心には次々と幾つもの仮説が浮かび、そして消えた。

そして、ある一つの思いが確信に変わった。

今日氏が舞っているのは、仏の物真似、仏の舞ではない。

あの舞は、社にいた「神さん」だ。あの社は、小王にはよくわからないが、何かが祀られていた場所だったのだろうと考えたのだ。

あの仮面は、忘れられていた社の中で朽ち始めていたのだ。日氏はそれをもって仏の舞を舞い、仏の舞のかたちの中に、あの社を復活させたのだ、と小王は思った。

 

 

追儺の賑やかで緊張感のある空気の中、催されたこの舞の血管には、今よりもずっと前、そしてこれからの祈り、名前をつけることもないような気持ちが流れているように見えた。

大きな面の顎は切られており、ガクガクと動くその震えは、神がものをいうている様そのものと小王は見た。神を見た事が有るか無きかはあまり関係がなかった。

彼は今、目の前の舞の中に、自分の心を見ているような気がした。

 

 

笛の音が止み、老翁は動きを止めて、幕の方へ、先ほどと違う調子で歩き出した。舞が終わったのだ、と小王は悟った。少年は長く時間をかけて、ひとつ息を吐いた。

人々の喧騒が先ほどより騒がしくなった。祭りはまだ続く。歩き出す人々に押されながら、この体の小さい少年は、息と一緒に心を吐き出してしまったかのように、永遠そこにいるように立ち尽くしていた。

 

 

翁はもう引き下がっていた。

人々の喧騒が先ほどより騒がしくなり、その増大は波のようになって、りつの耳に届いた。

少女はこの日を待ち望んでいた友の事を思い出し、彼を探そうとしたが、人の群れはあまりに巨大で、焚き火の灯りは人々の動きに散らされて消えてゆき、りつに見える世界はたちまち暗くなってしまった。それは陽の光が、海の中へ沈む過程で藻屑や魚の鱗に吸い込まれて、底の方まで届かないのに似ていた。りつはじっとしていたが、不意に目の端に、小王がいつも着ている着物の柄が瞬いた。その場所は少し人の動きが少ないらしい。その方へ顔を押し出し、また人に押され、それでもつむじからねじ込むように押し出し、りつがいじけたような顔を上に向けた時、目の前にまで近づいたかの少年は、眼球を動かさず拳を握りしめて立っていた。人々が彼を避けるかのように人混みは彼にぶつからず、その足は砂埃で白く、人の皮膚でないようだった。

りつは、あんなに力を込めて手を握ったら、爪が食い込んで痛そうだ、と思った。

肉式 第二部

 

変化というものは時々、変わっていくものたち自身も認識している。過去に馴染みすぎているものは、変化を飲み込む時、自分を騙したりしている。飲み込んでよいものか、人に聞くか聞かまいか。一人で思案しながら、過去を忘れることを寂しがり、いつかそれも思い出さなくなる。一例がある。それは時代である。

──木に止まっていた鳥が飛び立ち、にわかに葉が波打つ。心地よい音が木に跳ね返って林に響くが、それも少しすれば収まってしまう。

音が沈んだ後の森は、恐ろしく涼やかな沈黙である。千代はこの時初めて、今までこの森がずいぶん静かであったことに気がついた。

この、観光地でありながら観光地らしい雰囲気を全く持たない名山に、千代たち一家は関西から旅行に来たのであった。千代は今年十一歳になる少女である。その足は以前から山の地の上で酷使しているためにもう重たい。今向かっている目的地は、山の中腹にある神社である。元々は、もっと麓にある宿に観光で泊まっていたのだが、目の覚めるような匂いの立ち込める細かい木々の中に、古の土着信仰の面影を残す神社があるというのを宿で父親が聞き、大きな川に沿って山を登ってきたのであった。千代の父はなにか話を聞くとすぐ行動に移す人で、この山もそれなりに名の知られている場所だからと、神社まで登ることに急遽予定を変えたのである。

千代達はもう少し歩かねばならない。気持ちは山の空気を吸うたびにどんどんエネルギーを増していくように伸びていくのだが、足の疲労は顕著に表れていた。「さっきのお爺さんの話やったら、ここで曲がったら近道らしいけど、坂がきついな」

途中にあった木の根で休んでいる千代は、前の二本道の方を向いている父親の話を聞いた。さっきすれ違った老人はここの人らしかった。

「私はもう足が治まったから、その道でもいいよ」千代がはっきりと聞こえるように気遣って喋ると、父親は振り返らず、手ぬぐいをごそごそとカバンにしまって「じゃあそうしよう」と背中を通して言った。

 

緑の葉に包まれるようにして現れた社は実に壮観であった。父と千代は石碑に刻まれた建立縁起を読んだ。「文永三年、ここにまします神の...」途中から千代は石の凹凸に手を添えた。その方が読みやすいような気がした。元より読めない字であるから、彫った人の気持ちがわかりそうな手段といえばこれしかない。母は手ぬぐいで着物や持ち物を払っている。「彫った人の気持ちがわかりそうや」千代は、ぽつりとつぶやいたつもりだったが、先ほどの道のりで震えた息になったその声に、父親は目をつけて読み上げるのを辞めた。「彫った人と書いた人は別と違うか」と彼は言った。千代はなるほど、とも思ったがやはり彫る時に文のことを考えて彫らない人はいないだろうから、少しでも頼りになるだろうと思ってやはり石をさすった。千代はこの一連の会話が面白くなり、さらに速く石をさすった。

石碑の隣には、新しい木の立看板があった。隣の縁起を踏まえ、この社がこの地の人々とどう関わってきたかを説明するものであった。産まれた赤子はここの「神さん」にご挨拶に伺い、埋葬の時も挨拶をしにいくのである。

仏教がこの地に伝わり、近所に寺が出来てもこの社は人と御法と共に共生していたのである──

父親は面白そうに、そんな文面を読んでいた。

 

 

帰り道の山の斜面は急で、千代は息を吐き出すたびに、その拍子に力が抜けて足を持っていかれるのではないかと思って落ち着かなかった。

そういう時は頭が別の方に向く。千代はさっきの神社縁起を読んでから、ずっと千代の祖母がいつも家の真ん中にある部屋に行く時のことを考えていた。その部屋には神棚がある。ご飯が炊けると、彼女はここにご飯を持っていったり下げたりする。その行為は義務という感じよりも、いつもの事を超えて日常動作の一つのように見えていた。さっきの父親の解説を聞いて、身近な例としてそれが当てはまるのではないかと千代は思ったのだ。こんな風に心に湧きあがった話題も、父親にそのことを話したら、なにか言いながら頷いたりするだけだろうと思ったので千代は何も言わなかった。

 

 

 

千代は今年で十一歳になる。

彼女が常日頃考え事をする時の態度や、自分についての態度には、なにか、己というものを己から遠ざけようとし、自分より人の方に惹かれやすいところがあった。なので、自分についての話を人から聞くのはあまり得意ではなかったし、人の事を好いてもそれを自分の気持ちとして相手に伝える事は少なかった。

彼女の友好関係は、そういうもの積み重ねで残った関係で出来ていた。それはまだ違う事を同時に考えたりすることの無い、この年頃の年齢だから成り立っていたのだが、彼女は自分でもそれに薄々気がつき始める所にいた。

 

旅行から帰ってきた次の日、千代は学校で親しくしている友人の心という少年に旅のことを話した。彼は千代よりも口数が少なく、人の話を聞いて相槌を打つ事が彼の意思表示のようなものだった。前の年と違って今は違う組なのが、かえって話す時間がきちんと区切られて千代はしっかりと彼と話せるような気がし、密かに嬉しく思っていた。千代の顔を見ると、心は目をわずかに大きく開け、「おはよう。」と笑顔になった。

心は千代の話を聞いている間、こぼれるように微笑み、またしんとして、時折「そうだね、そうだね」と、言葉の持つ歳の言った感じに反して、子供っぽい細々とした声を出した。千代は最近、心と話すと話したことが心のものになってしまうような気になる事があった。彼の話を聞くという行為は、大袈裟に頷いたりするわけではないのに、その話を話者一人のものではなく、心との二人のものにしてしまうような荘厳さがあった。

 

 

千代は帰り道で、地面を見ながら心との会話のことを思い出した。彼に話を聞いてもらう時に感じるものは、他の人との会話ではなかなか近いものが得られなかった。「それ」を千代は今まで感じつつも、さほど重要なものとは思っていたなかったのに、先日の父親に思った事を言わなかった、あの時から、心と話す事がなにか特別の事のように思えてしまっていたのだ。

千代はいつの間にか、自分が小石を蹴りながら歩いていることに気がついた。最近やってなかったのにな、と千代は小石を見つめた。こんなに小石を見つめた事はなかった。

 

家の玄関の前に立つと、何か騒がしい。戸を開けると、土間には祖母と佐々木婦人が立って話し込んでいた。

佐々木老婦人は、千代達の家から斜向かいの家に住んでいる方である。

時々夕刻などに野菜や頂き物を持って、この家を訪ねてこられる。彼女の目的には、千代の祖母との会話も多分に含まれている。

話はすでに盛り上がっていたので、千代は挨拶を済ませて奥の部屋にカバンを置きに行った。そうして、話の内容は聞かずに、家の中の至る所の木材─天井や梁など─に反響する二人の時折高くなる声を聞いていた。声は反響すると、時折波のようにゆらめいて、元の声と大きく変わったりする。水面を耳で見ているようである。そういう時、目で見ることと耳で聞くことはあまり変わらないようだ、と千代は思う。

声という役目を負わされていない声はとても魅力的だ。千代はこういう時間が長く続くのが好きだった。

不意にそれが止んだので、千代は先ほどまで話し声がしていた方を向いた。足早に祖母が土間を飛び出して、台所の方へ行った。ご飯が炊けたと母が言ったのである。

神棚にご飯を盛るのは私がやると祖母がいつも言うので、母も教えたのだが、老女の足取りは太腿から木の板に張り付き、スリッパが滑るような音を立てた。

千代は玄関で祖母を傍観していたが、不意に耳に入った音で目線は眩んだ。

「みっちゃんはマメやねぇ。」

千代は佐々木夫人が居ることを忘れかけていたので、慌てて振り向くと、婦人は千代の方も祖母の方も向かず、ただそこにいた。

それでいて、先ほどの声は虚空の何かに自分の考えを訴えかけるように大きく発したのだ。

婦人はこういう癖があった。何かに向けてしゃべっているともつかないが、大抵それはその場にむけてしゃべっている。

「私も最近はしてへんけど。昔はしてたけどねぇ。」こういう場合の、返答の言葉を誰かが喋らぬまま訪れた沈黙というのはなにか悲痛なものがある。

千代の心に喋らなければいけないような思いが湧いた。しかし、この場合の返答は少し厄介で、千代は話始めの時に口を少し歪めるような不本意な形をとってしまった。

「昔はみんなしてたんでしょうか。」

言い終わった後、千代は言い訳のようにまた口を歪めた。

佐々木婦人の顔が千代の方を向く。婦人はこの時瞼を上げて、千代の事をしっかりと見据えた。「あぁ、お供えは、そら私らの小さい頃はみんなしてやったと思うよ。でも昔ほど気は使わんかもねぇ。面倒とかそういう事ではないんやけどねぇ。」

佐々木婦人ははきはきと喋った。「昔からのことやからね。今もしてるけど」

千代は、少し驚いた。この何かぎこちない会話に、祖母と佐々木さんの違いが現れてきたのが不思議だったのだ。そして、この少女は自分でも随分不思議に思うほど、この言葉が心に刺さったのである。

 

 

 

次の日の学校で、千代は休み時間に、心に会いに行くのを遅らせた。あまり早く会いに行くと、昨日帰り道で考えていた事を話しながら思い出すのではないかと思うと、時間が来ても行こうと思えなかったのだ。思い出すことは些細な事だが、それに自分が囚われるのはその時の千代にとって小さな恐怖だった。

結局、放課後すぐに千代は心を探して教室を出た。彼に会いたいという気持で思い出すとかなんとかという事は思考の外になっていた。

心はいつもと同じく、ゆっくりと鞄にものを詰めていた。千代が廊下から、声をかけると、窓際の席の心は、距離に配慮して大きく笑った。

 

 

 

 

帰宅して、千代はすぐに離れに行った。

ここには小さい文庫と硯箱が置いてあり、千代は硯箱の中に習字道具、文庫に書いた後の半紙を入れている。

彼女はさっき心と話したことももうほとんど考えず、習字の稽古をしていた。習字は書いたものが全部誤魔化せずに、墨の黒々とした線でそのまま残り続けるので、千代は習字をするたびになにか重大な事をしている気がして少し疲れるのだった。先生に言われた課題の文字を、とにかく大きく書くように集中する。縮こまっては貧相だ...千代は言われた事を思い出しながら、墨をすった。

続けて、大きく課題の字を半紙に滑らすように書いていると、握っている指以外の神経がどんどん無くなってゆき、

頭から一本の線が筆先まで通って、そこにのみ神経があるような気持ちになった。筆は意識を飛び出し、墨を媒介するだけになっていた。

そうしてずっと続けて書くことの出来ていた文字は、外で吠えている犬の声に気を取られた拍子に変形し、二度と同じ心持ちで書けなくなってしまった。千代は筆先を滑らして意味のない線を書くことしかできなくなり、仕方なく文庫の漆細工を見つめた。漆細工の絵は秋の景色である。

風で落ちていく紅葉は、金粉の一点一点の移ろいで描かれ、本物の紅葉より紅葉を克明に表していた。

それは人が記憶の中で思い出す物事と、現実の物事の乖離に似て、蒔絵の紅葉はみつめるほどにどこまでも深い黒に沈んでいった。

じっと千代が文庫を見つめる、その沈黙を破ったのは背後の物音だった。

 

戸が軋む音に千代が振り返るより前に、心の足が畳に触れていた。

心は適当な言葉のうちどれを言うか迷ったとみえ、曖昧な頷きを幾度かした後で、手に持っていた袋を持ち上げて見せた。「千代ちゃんは、柿って好き?」

 

心は、遊びたくなったので、そんな話もしていなかったけど家に来ちゃった、とペタペタするようなこの歳の男子らしい喋り方ですらすらと語った。千代は適切な返し方がわからず、かえっていつもの心のように相槌だけで会話をしてしまった。そして、千代ちゃんという呼ばれ方はどうも慣れないな、と考えていた。

柿はもう剥いてあった。容器から着々と柿を取り出す心に、千代は少し驚いたが(そのあと、盛り付ける皿まで持ってきているんだ、と皿を出し始めたのにはさらに驚いたが)、青い絵付けの皿に盛られた柿を境界線にして二人が机を囲む形になると、千代の中ではもう話したい、という意欲が膨らみ始めた。

 

二人の会話は昨日の雷雨が凄まじかったことの共有に始まると、明日の学校の事や、友達の話に話題は飛び、柿の表面から艶がなくなる頃、二人の会話の中心は自分達の話になっていた。

千代は、自分の話をこんなにしっかり、他人同士でするのはもっと小さかった頃以来だな、と思った。

 

 

個人と他人という壁を理解した時から、人は自分を混同しなくなる。赤子の時と、世界は変わってしまうのだ。...この言い方は適切ではない。人が言う「世界」とは、すなわち「自分が見ているもの」である。千代の世界は、千代が見ていると思っているもの以外も多分に混じっていた。

そして、千代は自分と他人を混同こそしないけれど、その境界をあまり強いものだと考えていなかった。他人と自分は違うものだという認識は強かったが、自分は自分であり、他人ではない、という意識はこの少女はあまり強く持っていなかった。

 

千代は、心から受ける印象が、今日はいつもと少し違うような気がし始めた。目の前ですらすらと喋っている少年は、いつもどおりなのに、千代の心は落ち着かない。自分が心に何かを感じているのだろうか?千代はそう思った瞬間、怖くなって考えるのをやめた。ずっと考えていると、何かが変わってきてしまう、そう直感したのだ。

気がつくと、千代の頭は下がり、目には机の上の柿しか映っていない。はっとして、顔を上げると、心の顔は窓からの橙色の光を跳ね返し、今まで見た事がないような表情に見えていた。その顔を、千代はずっと眺めていたいと思った。千代は自分の心に愕然とした。

 

 

どうすれば良いのか、俄にわからなくなり、千代は手を震わせた。なにか指に当たるものがある。先ほどまで書いていた半紙の入った文庫である。

千代は文庫が何か場違いなようで鬱陶しさすら感じた。自分の今の気持ち、状況にそぐうていない。

千代は心との会話の中での相槌も虚になり、文庫を後ろの方へ下げようとした。指を文庫に添えようとしたその時、心がはっきりと一言喋った。「あの時から、千代ちゃんとずっと仲良しなんだよね。」昔遊んだ時の出来事の会話だったのだが、千代は何を話していたかも一瞬忘れ、変にびっくりして、落ち着きたい一心で文庫に指を添えた。

そうして、心の目に映らなくなる程度自分の背の方へ押し下げた。

「あの時から、もっと仲良くなったんだよね。」千代は気持ちとは裏腹に、さも人が落ち着く時のように手を膝の上に戻した。

「そうだね、そうだね」心は下を向いた。下唇がさっきより目立って見える、それから千代は目が離せない。

 

 

千代は、いつからか心の眼を凝視していた。

長い時間が経った気がするが、止めるその時までやめない気になっていた。あと一秒後には、今いる場所から自分が動き出しているかもしれないという思いがあった。その思いは期待に近かった。

過ぎてゆく一秒はその度に新しいものになり、期待も増大するばかりだったが、しばしの時間が経ち、千代は突然、今の全てに耐えきれないような気がして、勢いよく頭を伏せてしまった。

耳には何も人の声がしない。心は何も見ていないし聞いていないように思える。

千代は綱を引いてるような気がした。時の綱。休まずに引かれてゆく綱は、時間が経つほどに重く、引かれる先への期待が増す。

行く先を見るが如く、意を決して千代は顔を上げた。

目の前にある心の顔に、口元から頬をゆるやかに崩していく動線が走っていったのが見えた。自分が見つめられているのだと千代が気づくと同時に、心は今までで一番微笑んだ。口の端はちかちかと瞬き、微笑の顔の上には熊野筆のように美しい眉が震えていた。千代は信じられないという喜びが沸き上がるのを自分で感じた。体の末端の意識に気を配れなかったために、足を崩した拍子に腰を床にぶつけて骨が響いた。

眉を顰めることすら千代はしなかった。

心の顔は先ほどから異様なほど変わっておらず、その笑みの表情も変化していない。

千代は足を二歩進め、初めて心の手を握った。千代が進む際、手の甲で振り払った文庫は

窓際へ滑り、漆は夕刻の気怠い陽を浴びて目に痛く光った。

 

 

「その頃だったらそんなのはいっぱいあったでしょうねぇ。今みたいに電気もないから」

 

「まぁ、そうやわね。

こんな机もあらへんかったよ。ほんまに木だけやったから」

離れから離れた家では、千代の母と祖母が会話をしていた。流しの音で美枝の声はところどころ揺れ、壁に映る水面の波紋の影は、千代が見れば美枝の声の影のように感じただろう。彼女たちは世代間の違いについて世間話をし、全くもって普遍的な日常をこの時営んでいた。

 

心は離れから帰っていった。もう夕日が半分ほど沈んでいた。千代は足を折るようにして正座を崩し、離れの埃っぽい空気の中で何もし難いあの気だるい夕日にあたられていると、突如として自分を照らしている夕日が恐ろしく憎くなり、音を立てて立ち上がり、離れから慌てて飛び出た。

 

千代は今日、朝ずいぶん早く目が覚めてしまったので、周りが明るくなるのを感じながら布団の中で昨日のことを思い出した。いや、昨日のあの擁護の前後しか頭に出てこなかったのである。

千代にとって昨日の握手は前例のない感覚であった。今まで人に手を握られた時、彼女は相手の手から感じる圧力、その痛さ、少し呼吸がしづらい圧迫感とか、どこにどれくらい力を入れたら自分も同じ握力が出るのかとか(相手の力が自分より弱い場合はその逆すら考えたり)そういったものばかり冷静に考え、半分驚いているばかりであったのに、昨日の心から抱きしめられた時にはそんなことを考えている余裕もなかった。

擁護が終わった後も、その以前の感覚は訪れず、ただ彼女はこの余りの事態に、自分が生きているものか、肉に血が通うているものか恐ろしくなり拳を握り離してを繰り返した。それは生きているか死んでいるかの確認というより、自分が生きてるということについての不思議に、今初めて注目したというような事だった。

 

千代は、布団に顔を埋めながら考えた。

この感情は言葉ではよく説明しない。

今まで追い求めていたものにあったような気がする。しかしそれと同時に、今まで「一度たりとも」求めず、出会っていない感覚であるように感じた。いや、「それ」は感覚ではない...

心自身である。その人である。

 

 

 

 

夜明けと地続きの頭で学校へ行ったので、もちろん授業も頭によく入らなかった。

美術の座学の授業で、生徒たちは傷だらけの机が並ぶ工芸室に移動した。

千代は頭を下に向けたまま、机の上の、美術の教科書に載っている写真を見た。写真家が撮った写真は、パリの夜空である。白黒写真に色を付けた着色写真で、紫に近いような青色が空を塗り潰している。白黒写真は、その「白でない」銀色と黒色が混じり合い、時にカラーよりもその空間の色を伝えてくることがあるが、この場合はその上に本当に再現された色が塗られている。千代はグリザイユ画法というものを思い出した。その画法は、灰色の階調で陰影をつけて単色画を描くものであり、この上から色を塗っていくと陰影がそのまま色彩に反映されるので、立体的な絵を効率よく描けるというものである。これは美術の教科書の巻末に載っていた話だった。千代は眠たい時のような気持ちで、さっきの夢を思い出すように、昨日のことをまた考えていた。

記憶の中の挿話には色がついていたが、その陰影は全て色を通してのみ映っており、心の去った後で千代一人になった時の、窓から差し込んで離れの床にたまった夕映のオレンジ色は、誰よりもあの時の気持ちを語っていた。千代はあの時、自分は夕焼けを、空を見上げずに床で見ていたのだと気づいた。

 

学校が終わり、千代が校門を出ようとした時、後ろから名を呼ぶ声がする。声から思うに友人の沙織である。振り返って、千代の体は刹那に固まった。沙織の肩の向こうに、歩いてくる少年が居る。その少年は心だった。

 

目が合ってしまった以上は仕方なく、友人と心にぎこちなく会釈をして千代は歩き出した。こういう時はどうしても頭が下がり、靴と地面ばかり見てしまうのが千代の癖である。どこまでも平らな土の上を、靴がどんどんと蹴っていく風景。それを見ているうちに、すぐ二人は追いついてしまう。千代は結局三人で歩くことになったのだが、沙織の家が学校の近くであるために、すぐに二人になってしまうのを千代は忘れていた。

千代と心は、沙織と別れてしばらくすると、ポツポツと語り始め、いつも通りの会話へと進んでいった。最初に言い出した方や、言ったことはあとから思い出しても思い出せないような具合で、この時の「最初に言い出す」という行為は、ほとんど二人が同時に喋り出したのと同じような事だった。

 

 

 

「〇〇公園で遊ばない?」心が会話の中で急に提案をした。心の家からは少し遠い所にあるのだが、丘の上にある見晴らしの良い公園で、千代は最近はあまり足を運んでいなかった。

「ちょうどいいね。」と千代は言った。

 

 

心は自転車でやってきた。千代は家の者に伝えてすぐに来たので、ベンチに座って、そこが自分の住む所であるかのように落ち着いていた。

二人はやっぱり少し話をした後、キャッチボールをし始めた。彼らが遊んだりする時は、言葉で始まり、終わる時には言葉を必要としなかった。心の投げたボールも、千代の投げたボールもなにかふわふわし、二人はその度に息を切らしながら笑い声を上げた。

千代は、自分の喉から出ている音が笑い声なのか息切れで吐く息なのか自分でもよくわからず、ボールを投げる時にふっと息を止めると、その瞬間に目が冴えて、前にいる心が、世界の中で彼にだけピントが合ったように見えた。

 

遊びは終わった。二人はやっぱり終わる時に、別れの挨拶以外の言葉を発しなかった。

帰り際、心が「バイバイ」と言った。千代は心より少し高い調子で「バイバイ」と言った。言い終わった後、千代は口を閉じるのが少し寂しくなった。

 

心の自転車は、ずっと真っ直ぐ下っていき、夕陽の沈む方向へ途中で舵を切った。

千代は、こんな絵を昔見た気がした。何かの展覧会で目にしたのかもしれない。ぼやけた記憶が頭の中に浮かぶ。

その絵はどんな色だっただろう。どんな飾りのついた額縁に入っていただろう。─正しい事実では、画家は絵をキャンバスに描き、それを樫の木で縁取ったのだが─千代の記憶の中の絵は、今見ている夕映の雲に縁取られていた。

 

 

千代が帰宅した時、祖母は神棚の前でじっと正座していた。千代が後ろに居るのに気づかないので、気を遣って物音を立てずに千代もじっとしてしまった。三方の上にはおはぎの箱が置いてあった。

この神棚に座すものを、祖母は如何に見ているのだろう。千代が心を見ているとき、その底にあるものは同じような気がした。

私がまた生まれる前のずっと前、神棚の上に飾ってる銀板の写真に写っている人たちよりもっと昔の時代の霞の中に、その心はあったのだろう。その根は伸びていつしか天照大神とやら長い名前になり、もう一つの世界では心の足元へと伸びた。

そう考えなければ説明もできないような気がした。千代は自分は何か説明がしたかったのだ、とこの時思った。

あまつさえ、この世界において、その根を探したいような気もした。帰ってきた時は時刻は夕暮れの少し前だったので、千代は音を立てないように急ぎながら玄関へ出た。気がつかないうちに走りながら庭へ出ると、日はもう見えなかった。辺りは青色の中から滲み出てきた紫色に移り変わってきていた。

写真で見た青色と全く同じ色をしている空。

遠くの方になるにつれ、暗さが増していき、山に遮られてその向こうは見えない。

今、向こうまで早く駆け出していけば、その先に繋がっている根のあった時代に行けるのではないかとすら思えた。

 

分離というものは突然訪れる。

開始点から見てゆけば別れは突然の飛躍であり非常な事態だが、終着点から見ればそれはずっと、始まりから地続きである。

 

千代は、心が引っ越すのだそうだ、と友人から聞いた。この数日、心は風邪で休んでいたので本人には会えない中での出来事であった。

千代は、告げてくれた友達にどういう返事をするか、候補を頭の中で二、三上げたがどれも違うような気がして、結局何も言わずに、口を歪ませた。

 

こういう時、驚きに次いで心の中に生じることは大抵決まっている。

「なぜ当人は知りながら、友である自分に言わなかったのだろう?」

という疑問だ。

こういう思考は「不思議」について考える事である。しかし千代は、こういった不思議について疑問に感じで考えるということをしなかった。今の彼女にとって、この不測の事態は不測でこそあれど、不思議な事とは捉えなかったのだ。  

 

千代の日常には何も変化がなかった。

千代自身も、変化しているかそうでないかは考えないようにしていた。

 

数日経って、風邪の治った心は学校に通うようになった。引越しともなれば、皆心に注目するのだが、千代はこの時の周りのことをよく覚えていない。この時の日々は、薄い半紙のようにぼんやりと霞んでおり、人々の動きや耳に入ってくる内容は、和紙の中に透けて見える繊維のように、意味のない羅列だった。

 

ある日の帰り道、歩いている千代の横を、心が追い越していった。千代は何も考えず、歩きを止めた。心も少し歩いた先で、千代の方を見ながら歩くのをやめた。

千代から見た心は何も考えていないように見えた。千代自身もそうだった。

心は目を少しも動かさずに、喉仏を揺らすように不器用な声を出した。「また明日も遊ぼう。」

彼の唇は、音の振動で震えていた。

千代はこの時初めて、もしかすると心は千代が引っ越しを知らないと思い込んでいるのだろうか、と思った。

 

次の日、放課後に千夜と心は丘の上の公園へ集った。

今回は、始まりも終わりも両方に言葉がなかった。秋風が吹いてくると、夕日の橙色がその風にもついているような気がした。

この間の気怠いような光の頃より、幾らか澄んだような色になった夕焼けは、かえってぼんやりした空気を作っていた。

丘からは、先に広がる山々や、そこへ沈みゆく夕日が見えた。

 

心は、いつも通りの微笑を、今回は別れの挨拶の代えにして、声を出さないまま自転車に跨り始めた。千代は、心のそういうところから何かを感じ取るということをしなかった。

丘の下には、向こうの山まで続く道がある。その道は真っ直ぐなものが段々とくねり、家々や川に合流し、細く分かれて、山や田へと消えてゆく。

 

 

心の自転車は、ずっと真っ直ぐ下っていき、夕陽の沈む方向へ途中で舵を切った。

千代は、今瞼を閉じれば、全てが暗闇になって、心も、自転車も、夕焼けと空気と自分すら感じられなくなるだろうと思った。だが、瞼をどうしても閉じることができなかった。心の自転車が少しだけ速くなる。道に消える。

日はまだ沈まない。千代は今になって初めて、瞼を閉じた。

いつもと何も変わらない暗闇に、千代はこれを受けて「絶望する」という誇りすら持たなかった。千代は全てを否定したくなった。今、私を取り巻いているものは何も自分を救わないのだという自己中心的なメランコリックが心を覆い尽くすのを感じ、千代は恐ろしくなって踵を返し家へ走った。

千代を救うことはできない近所の飼い猫が、鬱陶しそうに太陽の方へ鳴いた。

 

 

 

木戸を開ける時の音すら、千代は無関心に受け止めた。帰った後でも心のことを思い出してしまう自分がこの世に存在していることに、千代は若干の不平を抱いていたが、数日するとそんなことにも慣れてしまった。

 

 

また数週が経って、心は引っ越して行った。

最後の挨拶は、あの時の夕日だったような気がした。夕焼けは、二人が同時に発するメッセージであり、それは二人の中に流れている同じものだった。心が引越していった事実は、日常の中のひとつの出来事という形で集約されていった。

 

千代は、目が覚めたとき、そのことを急に思い出して、瞼を強く閉じたり、時計を見つめたりしたが、もちろん時間は戻らないのを見て、千代は─実はその時初めて─満足した。

布団から起き上がって床を踏んだ時、靴下を通り抜けて、木のザラザラしたような僅かな凹みが足に伝わった。

今日は休みの日だった。

千代は、神棚のある部屋へと向かった。

久々に入った部屋の台上には、祖母が供えたであろう、貰い物らしい饅頭が供えてあった。

千代は、それを見ると、部屋を出た。

居間に入ると、机の上に親が昨日読んでいた本が広げてあった。昨日はわからなかったが、それは健康法などを集めたもので、開いたページには、使った肺を休める体操の図案が書いてあった。簡素な印刷の、赤と緑がずれてインキの滲んでいる紙面を、千代は沈黙したまま見つめた。

千代は図案の通りに、思い切り胸を広げた。腕も一緒に広がってゆく。伸ばした手の一番先の指は、千代も知らないはるか彼方まで伸び、その先にある心の顔を撫でているように思えた。

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